Mo Cuishle

記憶とか日記とか

もう尻込みしたくないな

北海道に移住してから、あっという間に5年近い月日が経っていて驚く。

思い返せば色んな事があったけれど、辛かったことも過ぎ去ってしまえば微笑ましい思い出になるもんなんだなあ。

 

楽しかった事の方が格段に多いのだけれど、この5年の間で東京に戻ろうとした回数は数え切れない。

その度に周りに「東京に戻ろうと思う」と大々的に宣言して、しまいには「戻る戻る詐欺」と言われる有様である。

引越して実際に就活をして仕事が決まったこともあったのだけれど、なんだか急に寂しくなって内定を辞退して富良野に戻ったこともあった。

 

ただ、そんなことを何度も繰り返してやっと気付けた事としては引き伸ばしても意味がないということだ。

結局戻るならいつ戻っても同じなわけで、尻込みしている間に私は色んなチャンスを逃しているのではないか?そんな気がしてきた。

 

そして、引越しとはタイミングが重要なのだ。

来年の春に自宅の契約更新時期が来るので、そこを目標に就活をしてみようと思います。

上手くいけばいいな、くらいの気持ちで。

 

 

不思議だった出来事

この季節になると、某島に住んでいた頃のことを思い出す。

楽しい記憶はほとんど無くて断片的にしか覚えていないのだけれど、あの頃は常に体調が悪かった。

思い返すと不思議だった出来事が一つある。

今ならやっと笑い話に出来るし、話しても時効だと思うのでここに記してみる。

 

当時の私は、自宅の宿舎から自転車で40分かけて通勤し、半島の反対側にあるCD販売店で働いていた。

台風の日でも半ば意地で自転車通勤を続けていた。南の島の台風は、それはそれは凄くて、「ゴオーーーーー」という風の音で夜一睡も出来ないこともしばしばだった。

それでも、現地で出来た数名の本州出身の友人たちとドライブしたりすることだけを細やかな楽しみに、ゆったりとした島時間を過ごしていた。

 

ある日のこと。

仕事をしていたはずが、気付くと私は病院のベッドに寝かされていた。

後から聞いた話だと、レジカウンターで急に倒れて2人がかりで事務所に運ばれるも、意識が無かったので病院へ搬送されたらしい。

地獄のような日々が始まったのは、それからだった。

 

右下腹部が針で刺されているように痛み、ジーンズがはけない。時には足にまで痛みが響いて歩けず、仕事が出来ない。

酷い時には夜も眠れない。眠れてもうなされて夜中に起きてしまい、また眠れなくなる。

そんな状態が続き、島内、本州の病院を7軒ハシゴしてMRIやCTを撮ったりするも、どの病院でも原因が分からないと言われ途方に暮れていた。

仕事も辞めてしまい、気分もどん底まで落ち込んだ。

 

半年ほど経った頃、ツイッターで同じ島内に住む方からあるリプライをいただく。

それは、「知り合いに診てもらったらどうか」という内容だったのだが、その方の言う知り合いとはユタ神様といって先祖の祖霊と繋がる所謂霊能力者のような人のことだった。

 

当時の私は藁にもすがる思いで、酒の一升瓶片手に駆け込んだ。

そこで聞かされた話は、想像もしないようなことだった。

 

なんと、島人の霊魂が私に憑いているというのだ。

それも、私の行いが原因だという。

理由を知って冷や汗をかいた。

 

体調不良が起こる前、私は本州の友人とある浜辺で花火をしていた。

その浜辺は、昔風葬を行っていた場所だったのだ。

この島は、遺体や遺骨への執着心が強く、衛生上の問題により火葬が義務づけられている日本でも一部の地域では、昭和に入ってからも風葬が行われていた。

これも後から知ったことだが、ここに運ばれた遺体は、岩礁の周りに棲むヤドカリに食べられることによって天に昇っていったという。

 

次の日私は友人に連れられその浜辺に出向き、手を合わせた。

その後体調がスッと良くなったことは言うまでも無い。

本当に不思議だったし、自分の無知さをあんなに悔いたことはいまだに無い。

 

私が土地の伝承に興味を持ち始めたのもそれがきっかけである。

島も、浜も、ユタ神様の名前も書くことは出来ないけれど、郷に入れば郷に従えと言うように敬意を持って住むべきだと身をもって体感した出来事でした。

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旅の記憶1

5年前、大分県玖珠町へ行った。

豊後森役場で申請を出し許可証を貰い、廃墟と化した豊後森機関庫の見学へ。

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昭和9年に全線開通した久大線の中継地点として繁栄した豊後森駅

終戦直後に米軍機の機銃掃射に遭い、死者を出す惨事があったそう。そのため、機関庫外壁には生々しい弾痕が見られた。

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戦後のディーゼル化に伴い、機関庫も役目を終え、現在はJRによって管理された廃墟となっている。

中へ踏み入れると、壁や天井から落ちたガラス破片が散らばっている。

"自分を大切に"の標語が掲げられており、深妙な気持ちになる。

 

車を走らせ農道に出ると、夕焼けを鯉のぼりが泳いでいた。

 

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